坂本九の2

やはりなるんだたら坂本九ちゃん、大村崑さん、(番頭さんと丁稚どん面白すぎる)最高でした。夢で会いましょう。シャボン玉ホリデーザ・ピーナッツとか、クレージーキャッツとか。特に植木等にはみんな憧れていましたね。

時代は高度成長期に入る頃でしたね。

両親はそんな私の様子を察してか、劇団ひまわりの研究所に受験させたりしてました。私はなにがなんだか解らずに歌ったり踊ったり歌ったりしていました。

何日かしたら合格の通知がきたみたいだけど当時の入学金30万円が払えずに諦めたらしいです。

当時劇団ひまわりは恵比寿にありましたから

板橋区蓮沼から母に連れられて2度いきましたね。

親の方ががっかりしたみたいでなんだか気を使ってくれて帰りに母が、池袋にあったまるぶつの中二階にあった不二家のチョコレートパフェを食べさせてくれました。この不二家のバナナパフェとチョコレートパフェは最高でした。今でも最高です。

 

中学、高校とバスケットに夢中になってやっていました。スポーツ少年ではありますが、屋内スポーツですから、マイナーでした。

やはり時代は野球ばかりでしたね。

親父は野球一本。グランドで汗まみれ泥まみれになるのがスポーツだ。ひょろひょろでガリガリのもやしみたいな白っぽいのが、大きな玉を籠にいれてなにが面白いんだ。と散々いわれました。

あとでお袋に聞いたら、まさおの頃は戦後すぐで物価も高く、野球はユニフォームやバットやグローブなどお金がかかるからやらせたくても

できなかったと説明してくれました。

バスケットの方はもちろんユニフォームはありますがトレパンにランニングシャツでOK。靴も最初は体育館ばきで充分。長く続けそうになってからバッシュ(バスケットシューズ)を買ってもらいました。

 

戦後まもなく、当時の男は生活することに

必死で子供との接触のしかたがわからなかったようです。

うちの親父も私の顔をみれば勉強しろ、だの早く寝ろ、早くしろ、駄目だ馬鹿野郎。無理だ、駄目だばかり。

ただ唯一のコミュニケーションツールが、楽しいキャッチボールでしたね。

その時だけはすごく優しく明るい親父だったですね。

 

続く