18歳の進路。

18歳で新劇の劇団の研究所の夜間部に入所して一年間。当時は大学紛争の真っ最中で、まともに開校しているところが少ない状況でした。

早稲田大学位しか知らなかったので早稲田を受けて落ちましたね。甘く見ていたという以上に知識がなくまわりの環境も狭くて、アルバイトで受験料を支払い、勉強はせずにもっぱら当時流行っていた麻雀にうつつを抜かし、徹夜明けで試験に行ったことを記憶しています。

50年前の痛い出来事でした。

浪人というだけでカッコイイと思っていましたので、なんかワクワクしていた感じでした。

二つ上の姉から「マサオは演劇が向いているからそっちの方がいいから浪人してるんなら、折角だから演劇の研究所に入ったらいいよ。」

てな事で2月から急に演劇の雑誌テアトロを買って募集している劇団を検索。例えば当時有名な劇団民藝文学座俳優座劇団四季、などの情報をみたらほとんど募集期間が過ぎていて

間に合ったのは文学座東京芸術座の夜間部位

でした。

試験は2件とも学生服で、一般常識と演技試験、音楽、特技、面接など。

井の中の18歳のマサオ少年にはなにもかもがワクワクドキドキで全く上がってしまってほとんど覚えていなかったわけです。例えば、なんで学生服だったのか。

例えば試験で当時の京都府知事蜷川知事をニナガワではなくヘビガワ知事と書いてしまったり、エチュードという課題はまあ3分位の一人芝居みたいなものですが、私はやはり当時NHKで流行っていたジェスチャーだと勘違いして

審査員(劇団の大御所ばかり)のみている前で、当ててもらおうと必死になってーーという私みたいなジェスチャーばかりでした。

牢屋の中にいたら火事になり、よんでもだれも来てくれないので必死に出ようとしているが煙が充満して困っているさま。というテーマ。

出来るかどうかやってみてください。

結構難しいです。

結局、東京芸術座夜間部に合格。といっても働く人達に少しでも演劇の面白さを知ってもらおうと新しく開いたゼミみたいなものだったようです。

私も板橋区志村の大人気だったボウリング場のスターレーンでクロークやなんやら夕方までバイトして夜は西武新宿線上井草の劇団まで行き、終わりは夜21時。毎日でした。日本舞踊、洋舞、ジャスダンス、演劇の歴史の授業や実践的な発声訓練や演技指導。

18歳のマサオ少年は初めての世界に戸惑いながらも生き生きと過ごしていましたね。

 

続く。